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知らずに越えた大分水嶺

--- 23.境峠 ---
(長野県)
1959(昭和34)年夏他

初稿作成:2023.10
初稿UP:2024.03.20


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00.このとき越えた大分水嶺
地図00−23.境峠(長野県)

 群馬県までは、大分水嶺といいながらほとんどはその下をトンネルで抜けただけの話であった。長野県へ入って、少なくとも自分が訪れた峠が増えた。そのいくつかのうちでこの境峠がいちばん印象が深い。あれはいつごろだったか、”藪原発上高地行きの夜行バスが運行される”という情報を山の雑誌で知った。”藪原てどこや”と慌てて地図を開いた記憶がある。そのバスは1年ほどで木曽福島始発になった。それはそうだろう。藪原に比べて知名度が違う。夜中の3時前後に木曽福島を出て、朝の5時過ぎに上高地に着く。境峠はその途中の峠である。不思議に峠の上りになると目が覚めた。そして、そっとブラインドを上げてヘッドライトに照らされる白樺を見るのである。帰りは午後の明るいうちに越えるのが常だったが、その白樺が最後の白樺だった。



地図23−1.分水嶺の流れ 鳥居峠から境峠まで

 鳥居峠を越えた大分水嶺は、西側を木曽郡木祖村、東側を塩尻市として市郡境を北上する。A点で東側が東筑摩郡朝日村に変わる。そこは1市2村が交わるいわゆる三国境である。名のある山はないのかと探してみたが、三角点もないただの三叉路だった。
 その後、経路を北西に変え、烏帽子岳を経由して鉢盛山に至る。この山は長野県松本市、東筑摩郡朝日村、木曽郡木祖村の一市二村の交点に立つ。そのあと大分水嶺は再び南に向きを変え、小鉢盛山を経由して境峠に至る。そこを県道26号が越えている。この峠を木曽福島から上高地へのバスが越える。
 今回大分水嶺で対象となるのは、左の地図の中央部薄いブルーで囲んだ部分である。


23-a. 大分水嶺遠望
 上の地図のブルーで囲んだ部分、今回のエリアをカシミール図で見ておこう。
 左の図がそれである。奈良井川源流付近の上空から鉢盛山・小鉢盛山のペアを重点として俯瞰したところである。
 そしてその奥に続く山々を見て驚いた。何と北アルプスの名だたる山が並んでいる。赤丸印は私が独断と偏見で気になる山を選んでみた。字がはっきりしないので、読みにくい箇所もある。重複するが、左から順に読み上げると、笠ヶ岳・黒部五郎岳・双六岳・西穂高岳・ジャンダルム・奥穂高岳・前穂高岳・槍ヶ岳・野口五郎岳・立山・燕岳・常念岳・鹿島槍ヶ岳・白馬岳。北アルプスのいずれ劣らぬ名峰。野球でいえば王・長嶋クラス。これはすごい眺だ。


23-b. 鉢盛山・小鉢盛山
 本項の対象は、上の地図の中央部、鳥居峠から境峠までである。そのコースの中での最高峰は標高2447mの鉢盛山。これについ『旭村HP』に次のようにある。
 ――鉢盛山は標高は2,447m、松本平の南西に位置し、山頂は朝日村・松本市・木祖村の境になっています。
 朝日村を流れる鎖川の水源となる水の豊富な山で、標高2,400m付近には日本でも珍しい高地湿地帯が存在、珍しい植物も自生しています。また山頂付近には日本有数の山岳を一望できる場所があり、天気のいい日には御嶽山・乗鞍山・穂高連峰を一望することができる絶景スポットも存在します。2,400mを超える山ですが、登山初心者でも上ることができる比較的登山のしやすい山です。――とある。


23-c. 美ヶ原・王ヶ頭から

 鉢盛山自体は松本平の南西に位置するという。としたら東側の美ヶ原、例えば王ヶ頭あたりから見えるのではないか。作図させて見た。なんと乗鞍(右)と御嶽(左)に挟まれて見える。




23-d. 高ボッチから(乗鞍岳と並ぶ)
 となれば高ボッチからも見えていたのじゃないか。そのときは”鉢盛山”自体の名も知らなかったが。ひょっとしたら撮っているのではないか。あらためてそのときのデータを調べてみた。あった。たった1枚、撮っていたのである。

 あのときは、たしか御嶽山2014年9月の噴火からまだ1か月ぐらいしか経っていなかった。吹き出す煙につられて御嶽はいやというほど撮った。しかし乗鞍は夕方近くの太陽の真下にあって逆光にかすんでいた。そのとき左に見える2つの山(左から小鉢盛山と鉢盛山)の名は知らない。右の奥に見えるのが眩しくてよくわからないが、ひょっとして乗鞍かなというぐらいのところだった。(写真右)



23-e. 鉢盛峠

 大分水嶺”鉢盛山→烏帽子岳”間で、鉢盛山から東南東へ2Km弱のところに1つの峠がある。細い杣道が越えており、北側(東筑摩郡朝日村)は野俣沢→鎖川と名称が変わって奈良井川に合流。南側(木曽郡木祖村)は”ワサビ沢・信ノ沢・ヒル久保などの沢に分かれているが、すぐに木曽川になる。言うまでもなく、北側は日本海流域(源流は、奈良井川源流が木曽駒ヶ岳中腹にあり)、南側は太平洋流域の源流(木曽川源流)である。ところがどうしたことかWeb地図に峠の名称がない(右の地図の「鉢盛峠」は八田が記入したもの)。
 木曽川源流として取り上げたいのだが、名無しでは難しい。さーてどうしたものかとその付近の名のある峠のWebを探っていたら、『鉢盛峠』というページが出てきたのである。Wikipediaに次のようにある。
 ――長野県の朝日村と木祖村の村境にある峠。標高1,860m。鉢盛山林道は木祖村側が常時交通止めになっている。朝日村側もゲートが閉まっているが、こちらは朝日村から鍵を借りることによって山域に入ることが可能。峠に至ることができる。峠の西には鉢盛山(2446.4m)がある。――
 これで名称はまず”鉢盛峠”で間違いはなさそうと思っていたら、さらに詳しいレポートが出てきた。”鉢盛峠<峠と旅>”として、 「木曽川最源流を越える峠道」と見出しがついている。それによると、
 ――一般の道路地図や地形図にも、この鉢盛峠の名が記されていることはまずない。ネット検索してもヒットの数は少なく、峠の写真が出て来るのは稀だ。 しかし、現地の看板にはしっかり「鉢盛峠」の文字が記されている。私も峠を訪れて初めてその名を知った。(蓑上誠一氏)――とある。
 こうして源流域の峠が消えていくのだろう。いや、峠が消えるはずはないが、人の意識から消えていく。



23-2. 境峠

 郷土出版社刊・『信州百峠』(1995刊)に次のようにある。
 ――峠の歴史は古い。古代、美濃と信濃の国との国境であったことから境という峠の名がつけられたという説もあり、飛騨高山への本道ともいう。峠の交通は剣難で、貝原益軒が『木曾路之記』(貞享2年)で、「是より飛騨へ行く道は甚だ難所にて馬に乗ることならず。牛に乗りて坂を上下するという」と述べているように…(略)…、明治44年に藪原にも鉄道が開通すると飛騨の女工も盛んにこの峠を越えた。――とあり、また――それはともかくとして、今日の境峠は、関西・中京方面から木祖村藪原を経由して上高地とを結ぶ最短コースとなっている。道路もよく整備され交通量多い。頂上での展望はよくないが、少し下れば、木曽側では南に木曽駒ケ岳の連峰を望み、奈川側では北アルプスが手に取りように見える。(澤頭修自)――とある。

 境峠、小鉢盛山の南5Km強のところにある峠(1480m)。県道26号が通る。この峠は木曽谷から上高地への近道だった。まさに丑三つ時、午前2時半ごろに木曽福島を出て藪原から県道26号に入り境峠経由で奈川まで、そこで松本からきた上高地線に合流し5時過ぎにに上高地着というものすごいバスだった。松本経由よりほぼ半日弱稼げるのだから人気があった。
 冒頭に書いたように、このバスは当初、”藪原”始発だったが、1年かそこらで、”木曽福島”始発になった。私が初めてそのバスの乗ったのが、1959(昭和34)年8月。そのときはすでに”木曽福島始発”になっていた。そのときの記録では、急カーブの砂利道を走るバスに驚いたことだけを書いているが、2回目からは、「境峠」の名が出てくる(白字の部分)。そこが”大分水嶺越え”だとは夢にも思わなかったが、深夜のバスでありながら、その峠のことを何らかの形で書き残している。それだけ意識していたのだろう。最後の6回目は、道路のトラブルで出発が遅れたが、やっぱりそこを通るときには目を覚まし、”条件反射”で目が覚めたと。


◆1959(昭和34)年8月。 大滝・蝶・常念。

   

 木曽福島から上高地まで、曲がりくねった山道(もちろん未舗装の砂利道)を走るのである。いまから考えるとスゴイバスだった。とにかく3時間半、揺れに揺れるんだから。かくして朝、5時40分、大正池着。いま、関西から東京へ名神・東名をぶっ飛ばす夜行バスがあるけれども、疲労度では雲泥の差だろう。


◆1960(昭和35)年10月。 奥穂高。

   

 木曽福島着、深夜2時14分。バスの切符を買いながら空を見る。須原であんなに晴れていた空は、ここでは1つの星も見えなかった。たった30分走っただけである。時間的な変化か場所による変化か判断がつきかねた。ここだけが曇っているのだろう。勝手にそう判断するしかなかった。
2時30分、木曽福島発。境峠を越えて奈川渡へ入る。松本から来た道に合流、6時少し前に上高地着。奈川あたりから降り出した雨は本降りになっていた。

◆1963(昭和38)年10月。 西穂高独標。

   

 ホームへ降りるとみな脱兎のごとくかけていく。3年前、バスが出るかどうかを心配して、改札口を出たのを思い出す。切符売り場は行列だった。ここから上高地へのバスもポピュラーになったものである。
 街には木枯らしが吹いていた。屋根に取り付けられた看板がガタガタ鳴る。空を見上げればオリオンの三つ星が中天にかかって、それはもう冬だった。寒かった。
 2時30分、木曽福島発。境峠はヘッドライトの中。奈川渡も未明というよりまだ深夜の感。
 5時半、ようやく明るくなり始めた帝国ホテル前で下りる。バスが行ってしまうとあとは一人だった。ホテルの横を通って、中ノ瀬キャンプ場の中を行く。白樺の幹がほの白い。それにしても寒い。温度計を出してみると赤い液体が見る見る下がって0℃で止まる。

◆1969(昭和44)年5月 残雪の西穂高。

   

 境峠の白樺林。いまにも沈み行く大きな白い月が樹間を走る。バスの窓から水平方向に月が見えた。何でもない風景である。しかし、手前にある白樺が後ろへ走る。結果、白樺林の向こうで月がバスについて走っていた。峠を越えたところで、ほんのわずか明るみだした空に影のごとく立つ穂高連峰の姿を見る。そのときのイメージをカシミール図で。
 奈川渡にかかるころから、夜が明け始める。聞きしにまさる変貌ぶり、どこをどう走っているのか、全然分からない。川をさかのぼっているとばかり思っていたのに、水はバスと同じ向きに流れている。道はトンネルまたトンネル。昔の面影全くなし。と、思って下を見ると、いまにもダムに没しようとする旧道が遙か彼方に細く見える。  朝、5時10分、上高地着。気温0.5℃。
 帰りの境峠。山への別れである。砂利道の向こうに木曽駒ケ岳が見えた(写真右)。私が境峠で撮った唯一の写真である。帰りのこのとき、残雪の山を見た瞬間何も考えずに”御嶽山”だと思いこみ、長くそれを信じ込んでいた。今回この項を書くに当たり下の『信州百峠』から正しくは「木曽駒ヶ岳」であることを知った(*カシミール図)。わたしはいま免許を返納して運転はしていない。若いころ、自分で運転して、この峠を越えることがあったが、”木曽駒”が見えたこの場所がどこなのかは分からなかった。
 *春の穂高へは2度登ったが、1度は高山線を利用したため、結果的に境峠を越えたのは1度だけということになる。白樺林の中を月が走ったのはこのときだった。木曽福島発発2時半前後のバスだが、5月末のこのとき、峠ですでに夜が白み始めていた。下りで見た穂高連峰のシルエットが忘れられない。シャッターを切ったと思いこんでいたが写真は残っていなかった。瞬間目にしただけのことだったらしい。

◆1972(昭和47)年10月 秋の西穂高

   

 午前3時10分、バスは8分通りの乗客を乗せて出発。かつてのがたがた道も全面舗装。外の冷気で窓ガラスが曇る。それをぬぐってみる境峠の白樺はもう色づいている。その白樺の林の向こうを昇ったばかりの金星が水平に走る。あと3時間、天候の急変はあり得ないであろう。と思いつつ、いつか一人で奥穂へ登ったときのこと思い出す。あのときは須原では快晴だった。それが上高地では雨。秋の天気は怖い。しかし、今回は大丈夫だろう。

◆1973(昭和48)年10月 奥穂高

   

 3時少し前シャッターが上がって、出てきた男性が何かしゃべっている。部分的にしか聞き取れなかったが、結論は、「釜トンネル付近の通行規制のため、8時以降でないと通行できないため3時10分のバスは運休。5時20分の便まで待ってほしい」ということらしい。 深夜2時過ぎに起き出して、夜逃げのようにそーーっと旅館を抜け出してきたのだが、結局木曽福島を出たのは5時40分。夜が明け始めたころだった。ウトウトとして目が覚めたら、境峠の手前。木曽福島からバスに乗って、境峠で目を覚ますのは条件反射のようなもの。いつもは真っ暗らがりの中を通るのだが、今日はすっかり夜が明けて白樺の黄葉が美しい。



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